よろず評論サークル「みちみち」

●カメラ小僧の裏話3 コスプレ界のマナーvsマナー 正しいのはオレだ!(全文無料公開)

『カメラ小僧の裏話3 コスプレ界のマナーvsマナー 〜正しいのはオレだ!〜』表紙

下記の文章は、2010年12月31日、コミックマーケット79で発表した『カメラ小僧の裏話3 コスプレ界のマナーvsマナー 正しいのはオレだ!』の全文です。(図解、挿絵除く)
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■はじめに

 みなさんこんにちは、著者のみちろうです。この度は「カメラ小僧の裏話3コスプレ界のマナーvsマナー 正しいのはオレだ!」を手に取って頂き誠にありがとうございます。今年の冬コミも大晦日ですね。温かいお茶ドゾー(´・ω・)つ旦

 第1巻は「撮影会とカメラ小僧文化論」、第2巻は「撮影コミュニティでの男女の痛い話」と続き、第3巻では「コスプレ文化のマナー対立」についての評論です。夏コミでは同テーマの準備号を頒布しましたが、本書はその完全版となります。なんとか間に合いました。
 コスプレ、いいですよね。見るのも着るのも。10年前と比べれば随分メジャーな文化になり活動しやすくなりました。一方で様々なトラブルやゴタゴタも表面化するようになってきています。盗撮やセクハラなどのカメラ小僧のコスプレイヤーに対する迷惑行為はある意味「いつもの話」なのですが、よく観察してみるとコスプレイヤー同士、カメラ小僧同士で対立している事例などもあります。しかも内容はトラブルというより「アイツら意味分かんないんだけど」という文句の言い合いに終始しているものも多いようです。つまり違和感以上事件未満。今回はその違和感にスポットを当てました。

 本書は3部構成になっています。9つのChapterに分かれていますが、Chapter.1〜7では「現在どのようなマナー対立があるか」について、具体例を交えて解説しています。Chapter.8では「マナー対立の根源にある要素は何か」について、最後のChapter.9ではまとめとして「どうしてこのような状況になったのか」をその背景文化を探っています。

 第2巻の「男女関係の痛い話」と比べて今回は少々堅いテーマになりましたが、読後に「なるほど」と納得してもらえるような内容を目指して書きました。密度の濃いこってり文章の本ですが、読者の皆様には活字と棒人間の戯れを楽しんで頂ければ幸いです。

2010年12月31日 コミックマーケット79にて
みちろう

■目次

はじめに
目次
Chapter.1 コスプレ空間の中の「違和感」
Chapter.2 違和感「群がるカメラ小僧、群がらないカメラ小僧」
Chapter.3 違和感「原作を知らずにコスプレするイナゴレイヤー」
Chapter.4 違和感「18禁コスプレ写真集とエロ上等!の女の子」
Chapter.5 違和感「公共の場でのコスプレパフォーマンスはアリ?ナシ?」
Chapter.6 違和感「女の子だけのクローズド活動とマナーの流動性」
Chapter.7 違和感「いくら言っても話の通じないカメラ小僧の存在」
Chapter.8 違和感の背景にある要素は何か
Chapter.9 どうしてコスプレ文化に「すれ違い」が多いかおわりに
参考文献
スペシャルサンクス
奥付

■Chapter.1 コスプレ空間の中の「違和感」

□同じ趣味・同じ嗜好の共通意識のつもりが「アレッ?」の存在
 コスプレといえばここ10年ほどで急速に拡大し、今や日本のポップカルチャーの一つと言えるほどまでに成長した一大文化である。2007年のコスプレ衣装市場規模は前年比6.8%増の360億円と言われており、コスプレイヤー人口は2008年時点で10万人を超える規模まで広がっていると言われている。(*1)コミックマーケットのコスプレ広場に限らず、様々なコスプレイベントやコスプレのできる場所が毎週あちこちで開催・開放され、都市圏だけではなく地方各地にもその活動に理解が広がっているといえるだろう。テレビではコスプレがオタクの風物詩として扱われるようになり(*2)、全国各地の観光スポットでもコスプレ文化を取り入れることで町おこしに成功しているところも出てきている。(*3)
 だが一方でコスプレ文化が隆盛した結果、現場の人たちに「違和感」が現れ始めているのをご存知だろうか?
 どのような社会でも人の集まりにはトラブルが付きものであり、実際コスプレ文化のなかにも様々なトラブル・悲喜こもごもが存在する。だがここでテーマにしたいのは直接的なトラブルの話ではなく、コスプレという共通の活動を行っている者同士の仲で『なんとなく「居心地の悪さ」を感じている』という不穏な空気のことである。
 言い換えるとここにいる人たちは、「みんなコスプレの趣味を持つ仲間・同志である」という感覚が持てなくなってきているということだ。同じコスプレに関わる仲間でありながら、どうもこの人・この人たちとはソリが合わない、考え方が根本的に異なるなどで対立し、双方頭を抱えてしまう場面をよく見かけるのである。
 近年のコスプレイベントでは「それが日常」「他人とは価値観が違って当然」と多くの人が現状を当たり前のように受け入れている。しかし同じ趣味、同じ価値観の人が集まっているにもかかわらず居心地が悪い、相手との考えが根本的に対立してしまうという状況は実に不思議な話だ。
 ここでは背景的な解説の前に、その違和感について具体的なケースをいくつか紹介したい。どれもこれも「違和感以上、事件未満」の案件である。

(*1 コスプレレボリューション(無双舎,2010年)より。2010年現在コスプレSNS大手のコスプレイヤーズアーカイブではコスプレイヤー登録者数が9万人を超えている。この数字が名前と顔を出して活動をしているコスプレイヤーに限定されていることを考えると、現状は20万人に届く規模になっているのではないだろうか。)
(*2 テレビでK-1 WORLD MAXを見てると長島☆自演乙☆雄一郎が毎回コスプレをしているのも当たり前になってしまった。彼は根っからのアニオタであることを公言しており、また非常に礼儀正しい風合から一般人にもオタクにも好意的に受け止められている。)
(*3 秋田県では東京で働く秋田県出身者や県在住の若者らが企画する「美少女イラスト秋まつり@羽後町」が行われており、メイド姿や軍服で町内の古民家周辺を練り歩くイベントもある。伊吹萃香に扮した中学生もいるんだぜ。)

■Chapter.2 違和感「群がるカメラ小僧、群がらないカメラ小僧」

 コスプレ広場がコミケの風物詩になってから久しいが、長い歴史を経た結果コスプレを撮り歩く撮影者──カメラ小僧にも様々な考えの持ち主が存在するようになっている。顕著に差が出るのはその撮影スタイルだ。
 例えば注目を集める女の子コスプレイヤーがその場にいた場合、コスプレイベントとは違いコミケのコスプレ広場では撮影は扇型にコスプレイヤーを取り囲むように撮影するのが一般的だ。(*4)ただ、全員がハイエナのように群がるかというとそうではなく、一方で知り合いや仲の良いコスプレイヤーとずっとお喋りをしてほとんど撮らないというカメラ小僧もいる。重そうなデジタル一眼レフを首から下げておきながら、下手するとその日一日一枚も撮らないのである。(*5)それだけならそれぞれの行動スタイルだと片付けてもいいのだが、問題はそれぞれのカメラ小僧がお互いに「邪魔だ」と捉えていることにある。
□撮りまくるカメラ小僧 vs 撮らないカメラ小僧
 それぞれのカメラ小僧の思考を覗いてみよう。まずハイエナのように群がるカメラ小僧である。考えはシンプルだ。なんとしてもそのコスプレを撮りたい──ただそれだけである。たいてい注目を集め、囲み撮影になる女の子コスプレイヤーは美女だったり、エロだったり、ロリだったり何かしらの魅力がある。カメラ小僧はそのようなそそられる女の子のコスプレ姿を写真に収めたいという欲求が行動原理にある。その為たとえ囲み撮影になろうとも、そのコスプレイヤーにカメラを向けることに躊躇はしない。そしてカメラ目線をもらう為に「こっちにも(視線を)お願いします」と声を掛けるワケである。(*6)撮るからには正面からビシッとポーズを決めている写真にしたい。多少自己中心的な考え方ではあるが、そのような考えは外からも理解出来なくはない。
 だがここで障害が出てくる。コスプレ広場ではコスプレイヤーに了承を貰えれば撮影することが出来る。その為にはまず撮りたい女の子のコスプレイヤーに声を掛けなければならない。(*7)ところがその女の子コスプレイヤーが誰かとお喋りしている間は、会話に割って入って「撮らせて下さい」と言う訳にはいかないのだ。お願いする以上、心象を悪くしてしまっては元も子もないからだ。了承を貰う為に撮りたい女の子のお喋りが終わるのをそばでじっと待つことになる。3分待ち、…5分待ち、……そして10分待つ。お喋りは終わらない。苦々しく女の子の会話相手を見ると、長々と喋っているのは自分と同じカメラ小僧である。(*8)おいアンタ、カメラぶら下げてるなら喋ってないで撮れよ。そしてこっちにも撮らせろよ。と苛立つというケースがよく発生する。
□撮らないカメコ「これ差し入れ。じゃ、そゆことでノシ」レイヤー「来たなら撮ってけよ!」
 では"撮らない"カメラ小僧の思考はどうであろうか。そもそもほとんど撮らない、撮るつもりが無いのなら重いカメラを首からぶら下げている必要性が無いはずである。有り体な言い方をすれば、彼らは何をしに来ているのだろうか。
 実は彼らは別の場所、別の機会にその会話相手の女の子をたくさん撮影しているのだ。撮影会、スタジオシェア撮影(*9)、個人撮影(*10)という様々な形態で何度も撮る機会があるのである。それぞれスタジオでのコスプレ撮影だったり、公園や街中でのスナップ撮影であったり、遠方のロケーションで写真集(*11)の撮影だったりする。素敵な風景の場で、きれいなライティングの環境において一対一で思う存分撮影しているのである。となると人が大量に混雑しているコスプレ広場の環境で周りに急かされながらわざわざ撮る必要がない。囲み撮影の輪に入らずとも個人的に頼めば改めてちゃんと撮ることが出来るのである。
 となるとコスプレ広場では挨拶回り以上の理由は存在しない。いつも撮らせてもらっているコスプレイヤーさんが会場に来ているので、さしづめ差し入れを持って応援に来たという具合だ。(*12)また長く撮影活動を続けていれば知り合いのコスプレイヤーは増えていくので、コスプレ広場に行けば知り合いがたくさんコスプレしているという状態になる。撮る目的がそれほどなくても足を運ぶのは自然な流れといえるだろう。
□撮らないカメコ「だって周囲すごく殺気立ってるし」
 さて、そのような撮らないカメラ小僧がコスプレ広場に来てみると、仲の良い女の子のコスプレイヤーが他のカメラ小僧から撮影をお願いされている。撮ってもらう為にこの場にいるのだし、邪魔にならないように撮影が終わるまでそばで待っていよう。…と、待っているうちに、撮っているカメラ小僧の脇に別のカメラ小僧も割り込んで「こっちにもお願いします〜」と便乗撮影を始める。さらに2〜3人横に並び、5〜6人のスクラムになるとどんどん他のカメラ小僧も寄ってくる。ものの数分で囲み撮影になっていた──というのはよくあるパターンだ。(*13)
 こうなると延々と撮影が続く。撮り終わって離れる人と新たに割って入ってくる人が同数かそれ以上なのだ。次第にコスプレイヤーもポーズをとってあちこちのカメラに視線を送るのが辛くなってくる。流石にこれ以上は大変だろうと知り合いカメラ小僧がカウントを取るなり話しかけて打ち切るなりの仕切りを行う、という寸法だ。
 ところがコスプレイヤーに挨拶して差し入れを渡している最中にも、囲み撮影をしていたカメラ小僧たちが近くを去ろうとしないことが多い。やり取りが終わったらまた撮影を頼もうという魂胆だ。こちらが挨拶をしてる間、ずっと近くで「何仲良くお喋りしてやがんだコラ」というピリピリしたオーラを放ってくる。アンタら女の子に過度の負担を負わせちゃダメだろ。そんな嫌な思いに懲りてもうコスプレしてくれなくなったらどーすんのよ? 人の迷惑を考えろ。──というのが"撮らない"カメラ小僧の立場である。

 このように双方直接口を突いて文句が出るワケではないが、コスプレ広場では暗にそのような空気がついて回る。根本的に考え方がすれ違っており、どちらのカメラ小僧にとっても常に邪魔な存在がいるという状態になっているのだ。

(*4 一人ずつ撮影する形式にすると長蛇の列になり広場内の交通障害になるという事情もある。まぁコミケでなくとも首都圏のコスプレイベントは大抵長蛇の列になる。)
(*5 「今日は一枚も撮ってなかったよ〜」と自負するカメラ小僧もいる。なにそのグレイズしまくってピチュらなかったみたいな言い方。)
(*6 フジテレビによるドラマ版電車男ではオタク仲間(松永)に扮する劇団ひとりが無類の足首フェチという設定で、アイドル撮影会では「足首を!足首をこちらに向けて下さい!」と懇願するシーンがあるが、あれはテレビ的な演出であり実際あんな懇願は有り得ない。本当の足首フェチであれば■■■■■■■■■(検閲が入りました)するのがセオリーである。)
(*7 カメラ小僧=盗撮者と見られがちだが、カメラ小僧は場数が多いこともあり一応はコミケやコスプレイベントのルールを遵守している。無断撮影はルールを知らない新規参加者やライトな一般参加者に多い。ガレリアからケータイで俯瞰でパシャリ、とかよくあるよね。)
(*8 何を隠そう、前作『カメラ小僧の裏話2 ─撮影コミュニティにおける男女関係─』の表紙はすばりこのシチュエーションをイラスト化したものである。)
(*9 ハウススタジオ等は半日借りると10万円前後と結構な金額になる。しかも広くて1組の撮影ユニットではもったいない。そこで5〜6組の撮影ユニットで1つのスタジオを借りてワリカンで使うことをスタジオシェアという。大抵そのスタジオを一番使いたい人がいて、自分の負担を軽くするために間借り希望者を募集するので、厳密には"シェア(対等の共有)"ではないのだが…。)
(*10 女の子と親しくなって、個人的にお願いして二人で撮影することを個人撮影、個撮という。ここらへんのモニョる話は前作『カメラ小僧の裏話2 ─撮影コミュニティにおける男女関係─』にいろいろ書いたのでそちらをどうぞ(ぉ。)
(*11 コミケで売られているコスプレCD-ROM写真集では海辺や渓流や雪原など大自然の中での写真がある。関東近郊の撮影スポットだけでなく沖縄や北海道に行って撮影している。その意味ではプロ顔負けだ。)
(*12 一方で空気を読まずにその場で消費出来ないorしきれないものを差し入れたりすると、女の子の帰り道の重い手荷物になるか他の人の胃袋に入る運命にある(汗。というか差し入れで女の子の気を引こうとか浅はかな考えは…いや、これ以上はおくちチャック。)
(*13 情けないことに撮影拒否されるのが怖くて歩いてるコスプレイヤーに声を掛ける勇気がなく、既に誰かの撮影体制になっている状況を横から間借りするのである。)

■Chapter.3 違和感「原作を知らずにコスプレするイナゴレイヤー」

□「とりあえず流行りものでいっとく?」という考え
 コスプレ広場の『違和感』の根源はカメラ小僧だけに限らず、コスプレイヤー側にも存在する。コスプレイヤーの方々からよく聞く「これっておかしいんじゃないの?」という話が「作品を知らずにコスプレする人がいる」というものだ。
 同人誌の世界では、人気のあるサークルが作品が好きかどうか(内容を知っているかどうか)に関係なくその時代の流行ものを題材にした同人誌を出して部数を稼ぐ行為を、おいしそうなジャンルを食い荒らす迷惑な行為として「イナゴ」と呼んで疑問視する向きがあるが、それと全く同じ状況がコスプレ文化にも存在する。
 コスプレの源流は1970年代の日本SF大会などで行われていた「ファンの集いの中でのお祭り的な仮装」である。(*14)つまり、その作品が好きだから、熱の入ったファン活動の表出としてお祭りの場で作品の仮装をするという形態がコスプレをする上での精神面での土台となっているのだ。
 そこに近年新しい考え方のコスプレイヤーが登場してくる。「今自分が着ているコスプレ衣装が何の作品なのか知らない」というコスプレイヤーがいるのだ。(*15)つまりコスプレが熱意のこもったファン活動ではないのである。
 ファンとしての作品愛の表現という考え方からコスプレをしている人からしてみれば、作品を知らないけどコスプレをしている、それで注目を集めたり、写真集や動画コンテンツとして売ったりしているというのを見ると侮辱的な文脈を受け取るだろう。特にコスプレしているキャラの名前や設定、作品の中での背景などの知識が抜け落ちていたり、それ故衣装パーツやポージングがそのキャラにそぐわないものになっていたり、勝手に独自のアレンジがされていたりすれば周囲は訝しげにならざるを得ない。作品に人気があるから時流に乗りたいのか、顕示欲を満たしたりお金儲けの道具にしたいのか、という憤りは同人誌でのイナゴサークルへのものと同じある。
□「この可愛い服着てみたい」からはじまるコスプレ活動
 では視点を変えて原作を知らないコスプレイヤーの立場からものを見てみよう。特にこの傾向は女性に多く見受けられる「原作は知らないがコスプレはしたい」という心情はどこからくるのだろうか。コスプレして写真集や動画コンテンツとして売り出す場合(*16)を除けば、実は多くの場合イナゴサークルの発想とは異なっている。流行ももののコスプレをして注目を集めたいとまで考えているわけではなく、単純に「コスプレに興味があるからしてみたい」「でも何か特定の作品のコスプレをしたいというワケではない」「可愛い衣装なら何でも着てみたい」という心理から行動を起こしているのである。
 背景にはオタク文化のメインカルチャー化がある。1990年代までオタクというと主に男性のネガティブな怪しいサブカルチャーというイメージがまだ主流だった。(*17)それが2005年の『電車男ブーム』(*18)を前後にオタク文化は急激に若者のポップカルチャーに変貌し、女の子の中にもオタク的なものが「アリ」という認識となっていく。その過程の中で可愛い衣装であるコスプレがファンションとして女の子の文化の中に取り込まれていくのである。
 一言で言うと「カワイイからその格好をしてみたい」「そう考えるのは自然でしょ?」という考え方である。確かにカワイイものはかわいい。かわいいは正義。(*19)女の子であれば可愛くなりたいと考えるのは自然なことだ。たまたま最近のメインカルチャーがオタク文化だっただけである。これが80年代であればスケバンが流行り、90年代であればコギャルファッションが可愛いと持て囃されただろう。(*20)それと同じようなものだ。
 そう考えると原作を知らないコスプレ、キャラを知らないコスプレも悪意がある訳ではないことが分かる。むしろ「カワイイから着たいと思っていることの何がいけないの?」と疑問に思っているはずだ。自主的にコスプレに興味を持ってくれた女の子に先の視点のコスプレイヤーとしての心構えを押し付けるとすれば、確実に「コスプレって面倒くさい宗教的なしきたりがあるんだな」というイメージを持つことになる。とはいえ前述の通り、発言や振る舞いによってはファンの心理を逆撫ですることにも結びついてしまう。そして「これだから『にわか』は…」と蔑視する対象になるだろう。このようにオタク文化のメジャー化によって、既存のコスプレイヤーとメインカルチャー後に活動を始める若いコスプレイヤーとの間ではお互いの溝がどんどん深まっていくのである。

(*14 1972年のMIYACON(日本SF大会京都大会)にて仮装ショーイベントがあったという記録がある。ちなみに当時はマンガではなく映画の仮装が主だった。コミケでは1977年のC5にて手塚治虫作『海のトリトン』のコスプレをした少女が出現したのが最初。ちなみにトリトンは男の子なのでコミケ初のコスプレは男装女子だったことになる。)
(*15 東方ProjectのアレンジCDを出していた同人音楽作家がライナーノーツにて、「実は東方ってやったことないんですよね(笑)」と失言し炎上した東方紫香花舌禍事件も記憶に新しい。二次創作もコスプレも原作あっての活動であり、最低でもファンの神経を逆撫でする発言は慎むべきである。)
(*16 原作という他人のふんどしを借りた活動で利益を追求する行為は、原作を知っていようが知っていまいが閉口するものだ。でも需要があってマーケットが成立するのも確実なのよね。)
(*17 「おたく」という言葉自体1989年の宮崎事件をきっかけに知られるようになったものである。)
(*18 秋葉原の再開発が一段落し、オタク以外の一般人が流入するようになったのもこの頃である。平行してテレビ、クルマ、スポーツのようなそれまで若年男性のメインカルチャーだったものが軒並み斜陽し始めたのもこの頃だ。いったい何があったんだろう。)
(*19 女性が使うのは「カワイイ」で、男性が使うのは「かわいい」である。同じ発音でもそれぞれが指し示す文脈は微妙に異なる。かわいいは正義だがカワイイは邪道という意見も。まぁデコガン●ムは邪道だよね。)
(*20 スケバン(女番長→女番→スケ番)では、丈長スカートのセーラー服。逆にコギャルファッションではミニスカ&生足&ルーズソックス。それぞれの時代でカッコイイファッション、カワイイファッションがあった。今(2010年現在)はティーンにはプチプラ、お姉さんには大人カワイイ系が流行っている。女装活動で女性ファッションに詳しくなったのはいいのか悪いのか…。)

■Chapter.4 違和感「18禁コスプレ写真集とエロ上等!の女の子」

□18禁に回帰するコスプレ
 もっと対立が深刻で何かと物議を醸しだしているのがアダルトな表現を含むコスプレだ。つい10年ほど前までは、あるいは一般向けには現在も「コスプレ」という言葉は性的な意味合いを含むものだった。(*21)世の中でコスプレといえば「ゲームやアニメの仮装」ではなく「セーラー服」「ナース」「スチュワーデス」というような風俗のイメクラの類を連想するのが普通だったのである。本来のコスプレ活動をしている人たちからしてみれば、そういうものと一緒にしないでくれという思いだろう。「コスプレイヤー=イメクラ的なエロOKの人たち」という勘違いした下心満載の輩もたくさんいたと思われる。(*22)
 近年は啓蒙活動やオタク文化の広がりもあり、一般人にとってコスプレが「メイド服」や「エヴァやハルヒの格好」的なものというところまで認識が少しずつ変化してきたように見える。(*23)コスプレイヤー人口も増え、コミケや各コスプレイベントでの活動も以前ほどの風当たりはなくなってきたのではないだろうか。「よくわからなくていかがわしいもの」から「若者の間で流行ってる特殊なオタク趣味」に認識が変化してきたのである。
 ところがこの「コスプレが市民権を得つつある」ところに足を引っ張る存在がある。エロ/非エロの境界が未だ曖昧なコスプレ文化を逆手にとり、堂々とアダルト的な表現を取り入れるコスプレイヤーがいることだ。疑問視されるパターンは二つある。一つは撮影スペースでカメラ小僧の注目を集めたいと過度に肌を露出するトラレタ(撮られたがり)コスプレイヤー(*24)、もう一つはコスプレ写真集に乳房や股間の露出など猥褻要素を取り入れるコスプレ同人サークルである。順を追って解説していこう。
□コスプレイヤーから煙たがられる「撮られたがりのコスプレイヤー」
 まずはトラレタの存在である。よくコミケやコスプレイベントでの撮影スペースでは注目を集める女の子コスプレイヤーにカメラ小僧が扇状に囲んだり長蛇の列を形成していたりするが、女の子の側からすればその規模の大きさは自己顕示欲を満たす為のバロメーターとなる。カメラ小僧の視線やレンズが向けられれば向けられるほど気持ちいいのだ。カメラ小僧に認められれば認められるほど、言い換えれば褒められれば褒められるほど、更には、自分の美しさ、かわいさに自信があればあるほど快感を感じている傾向がある。(*25)それが過剰になると、いつしかコスプレが「カメラ小僧の注目を集めることが目的の競争」に変質してしまうのである。
 イベントで他の女の子コスプレイヤーに対抗意識を燃やし、自分が注目を集める為に自発的に際どい衣装を準備する。露出の多い格好をしてカメラ小僧を寄せ集め、イベントの中で一番注目を集めることに情熱を感じてしまうのである。意識的にやっているコスプレイヤーもいれば無意識的に対抗意識が芽生えてしまっているコスプレイヤーもいるだろう(*26)
 注目を集めるために際どい格好を辞さないのコスプレイヤーとなれば、作品ファンとしての普段のコスプレ活動をしている人たちからすれば煙がられる存在であり「カメラ小僧がコスプレはエロがOKだと勘違いするから迷惑だ」「あんな扇情的な撮られたがりと同一みたいに見られたくない」という思いが少なからずあるはずである。
□発売禁止処分そのものが宣伝文句になる18禁コスプレ写真集
 もう一つのケースであるコスプレ写真集を出す同人サークルも見ていこう。コミックマーケット3日目の同人ソフトジャンルの一角には、男性向けコスプレ写真集のサークルの集まりがある。18歳未満お断りかどうかはさておき、エロスとフェティシズムを念頭に置いたコスプレ写真集や動画コンテンツが頒布されている。(*27)ここ1〜2年でその過度な猥褻性が大いに問題になり、頒布停止処分が頻発するようになったようだ。
 大きな問題は二つあり、一つは原作の作品の著作人格権の侵害(*28)、もう一つは刑法175条のわいせつ図画頒布罪への抵触である。前者は民事での争いとなるが、後者の刑法は犯罪として一発で逮捕である。準備会側が問題視しているのは特に後者の方だ。絵ならまだキノコだアワビだと言い張れるだろう。(*29)だがナマモノでしょっぴかれれば言い逃れは出来ない。たとえ画像上でスミ塗りを施していたとしても1ピクセルでも見えていればアウトであり、頒布を許可したコミックマーケット全体の責任となる。次回から開催の危機に瀕するだろう。
 一方でここ数年はコスプレ写真集のエロ表現が過激になっていく傾向があった。困ったとことに限界への挑戦と言わんばかりにナマモノを隠すスミ塗りがどんどんギリギリになっていったのである。準備会もこの傾向は危険だ判断したのだろう。事前の注意喚起を踏まえC77では大規模な処分が行われた。これで過激な方向から軌道修正が行われるかと思いきや、「コミケで発禁になりました!それほどにエロエロです!」と逆に宣伝文句として使う始末。(*30)次のC78では敢えて頒布停止処分を受けて"箔"を付けようとするサークルも現れることになり、結局今回は当該のサークルだけでなく、似た傾向の表現を持つコスプレ写真集サークルも軒並み抽選洩れという状況になったようである。
□私はエロ表現でみんなに認められたから、私にはこれしかないの
 さて、扇情的なトラレタや過激な18禁コスプレ写真集を出すサークルについて弁明をする訳ではないが、彼ら(彼女ら)の視点からどのような考えで活動をしているのかも見てみよう。同じコスプレイヤーから煙たがられ、準備会から処分を受けながらも、女の子が自発的にアダルト表現に向けて邁進する動機はどこから来るのだろうか?
 アダルト表現といえば男性が性欲に駆られて見るものというイメージを持つが、女性からするとある種の不快さ、気持ち悪さを差し引けば「女性としての私を見たいと思ってくれる、注目してくれる」という肯定的な感情が現れる。一言で言えば自己顕示欲なのだが、突き詰めれば「私が存在している」「この場に存在していてもいい」ということを認めて欲しいという欲求である。これを『承認』という。女性に限らず人は誰かから認めて欲しいのだ。人から『承認』を貰わなければ自分が生きていていいのか不安に思うようになり、自己肯定感を抱けなくなる。承認不足に陥り極度な不安に駆られてしまうのだ。(*31)
 『承認』はどんなカタチであれ肯定的なメッセージが貰えれば成立する。それこそ身体を露出するアダルト的な自己顕示欲であっても、それを支持し評価してくれる人たちがいれば『承認』は満たすことが出来るのである。トラレタという現象はそれがやや間違った方向で先鋭的になり、カメラ小僧を地引き網する行為に繋がるのであろう。カメラ小僧側もエロエロなコスプレ姿を撮らせてくれるコスプレイヤーがいたら素直に喜んでしまう悲しい性を持つ生き物だ。(*32)トラレタに対してカメラ小僧なりに目一杯肯定的なメッセージを送ることになる。
 同様に18禁コスプレ写真集を出すサークルについても同じことがいえる。アダルトなコスプレ写真についての需要や売り上げの大きさも然る事ながら、実際自分の作ったものが評価され売れていくことは何ものにも換え難い嬉しさがあるだろう。それ故一度エロスやフェチシズムのコスプレで評価されるようなことがあればそれが自己肯定感を得る為の生きる糧となり、アダルトなコスプレが「自分が生きていることを実感する活動」となってしまう。18禁コスプレ写真集はより多くの人にカタチに残るものとして自分を見てもらいたいという気持ちの結実なのである。
 ちなみに18禁コスプレ写真集の購入者層はカメラ小僧だけというわけではなく、幅広く(ごく一部の嗜好を持った)一般参加者層が買っていくようである。同人誌のように鑑賞して楽しむ目的で購入する層は少ないかもしれないが(*33)、被写体であるコスプレイヤーの活動を応援する意味で買っていく層、純粋にアダルトコンテンツとして買っていく層が数多く存在する。(*34)マーケットが成立しサークル活動が持続可能なものであれば、それだけ支持する人が多く、それだけ多くの肯定メッセージを受けとることが出来るだろう。もっと生きたい、『承認』を得たいという気持ちが強くなればなるほど、それが過激なアダルト表現の方向にエスカレートしていくのである。いくらコスプレ写真集の猥褻性について批判を受けようとも、彼女たちは「生きるため」に活動しているのだ。

(*21 「コスプレ」という言葉が世間一般に認知され始めたのは1990年代初期である。しかし本来の意味ではなく、風俗やアダルトビデオから生まれた言葉として広がっていった。当時オタク文化はマイノリティであったことを考えると、正確な意味で認知されたとしてもどの道アンダーグラウンドなニュアンスは払拭出来なかったであろう。)
(*22 いや、その状況は今もか。)
(*23 オタクと一般人の橋渡ししているしょこたんの活動は偉大だと思う。)
(*24 筆者自身「トラレタ」という言葉はコスプレ広場のコミケスタッフをしている方からお聞きして初めて知った。撮らせて頂いている撮影者の立場からはなかなか見えてこない概念である。撮影者が「コスプレイヤーは撮られたがっている」という認識を持つことは勘違い野郎になる危険を孕む。)
(*25 筆者もコスプレを経験したからこそ断言出来る(汗。知人に見られてドン引きされるのはツラいが、匿名的な場所で知らない人からきれいなコスプレイヤーとして注目を集めるのは実際快感である。筆者は自分に自信がなかったが、自分の美しさに自信がある女性であればその顕示欲は推して図るべし。)
(*26 と、本文では書きつつ、実際撮影スペースに自分から来ているコスプレイヤーは全員どのくらい撮られるかということを常に意識しているだろう。)
(*27 コスプレ写真集は通称コスプレROMともいう。紙媒体ではなくCD-RやDVD-Rというデジタルメディアの頒布形態が一般的だ。近年はハイビジョン動画の撮影出来るデジタルカメラが登場してきたこともあり、動画が入っている作品もある。同人の世界では紙媒体の写真集はコストの高さ、エディトリアルデザインの難易度の高さなどの理由からほぼ存在しない。)
(*28 例えば全年齢向けの一般作品のキャラクターのコスプレ衣装があったとしても、それを着崩ししたり半脱ぎした状態でエロエロな写真作品として発表され、それが有名になったりすると全年齢向けの一般作品が18禁男性向けのポルノ作品というイメージになり、著作物の人格を悪くしてしまう。もちろん同人誌も同じ問題を孕んではいるが、特に実写は鮮烈なあまり影響が非常に大きいのである。一部では訴訟の準備をしているコンテンツホルダーもある。)
(*29 C77終了後の反省会で市川共同代表がそう言っていた(汗。紙媒体ならその場で一冊一冊マジックで塗り潰して頒布することも出来るが、CD-Rではそういうワケにはいかない。ただ一方で市川代表はC78の反省会でコスプレ写真集について「新しいジャンルが出てくるのは良いことだ。潰す方向にはしたくない。」とも発言している。)
(*30 ちなみに準備会は刑法でいうところの「わいせつ図画」に該当するかどうかの法的判断をしている訳ではなく、コミケの中で頒布して万が一しょっぴかれたときのリスクマネジメントとして主観的に判断しているに過ぎない。「完璧に隠してあるから刑法175条には抵触しない」というサークル側の反論は確かに筋が通るのだろう。コミケの外で自分で通信販売などをすることは実際に逮捕されて司法が違法判断するまでは合法である。米沢前代表の「犯罪やるならコミケの外で!」というメッセージは本音だろう。)
(*31 『私が何者であるか』というアイデンティティの『承認』と言い換えてもいいが、ここではより根源的な「生きてることを誰かに許可して欲しい」という弱気な気持ちである。ここを肯定出来る自信がないと生きていけない。自分一人で出来ない場合は認めてくれる他者が必要であり、実際多くの人はそれに該当する。)
(*32 今年の夏コミや各コスプレイベントを練り歩いてみた限り、ビキニ姿の初音ミクなどボーカロイド系でカメラ小僧を集める意図の露出の高いコスプレが多いように見受けられた。マクロスFでも東方でもなくどうしてボーカロイドなのだろう? まぁ、ヘタリアや銀魂の男装でカメラ小僧が撮りに集まったりはしないだろうが。)
(*33 頑張って作っている方々には恐縮だが筆者はCD-Rデジタル写真集の娯楽性に否定的な立場である。筆者個人としては、パソコン上でJPEGのスライドショーを見ることにお金を出すほどの面白みを感じられないのだ。デジタル写真をお金を払ってでも鑑賞したいと思える娯楽性のあるものとするためには更なる演出と工夫が必要だろう。これについては第1巻『なぜ「コスプレCD-ROM写真集」は微妙なのか?』を参照してほしい。)
(*34 *33に反する内容だが、一方で18禁コスプレ写真集がポルノコンテンツとして娯楽性があるのは確かだ。コミケにこそ出回ってはいないが、最近はAV業界の人たちが「同人的なAV」を作るというプロの犯行もありその完成度は年々高くなってきている。が、こっちは別テーマとなるのでこれ以上はお口チャック。)

■Chapter.5 違和感「公共の場でのコスプレパフォーマンスはアリ?ナシ?」

□おい、なんか近くの公園にキュアブロッサムと大きなお友達がいるぞ
 派手なファッションで街中を闊歩する人たちはそれこそタケノコ族(*35)の時代からいた訳だが、ことコスプレに関してはどうだろうか。近年ではコスプレイベントを主催する団体(*36)が全国各地に存在し、公共ホールや遊園地、観光地などでもコスプレの出来る空間が広がっている。地方でも大きな都市、関連イベントに赴けばコスプレイヤーとしての活動が可能だ。ではそれ以外の街中や公園、公共施設はどうであろうか。実はここは意見が分かれるところなのである。
 普通の感覚で考えればNGだろう。近所の公園にハトプリ(*37)の格好したお姉ちゃんたちといい年したおっさんカメコが集まっていたらガチでビビる(汗。おまいらなんでこの場所なんだとしまえん行けよ!と心の中でツッコむこと請け合いである。
 しかし一方で冷静に考えればストリートパフォーマンスの一種と割り切ることも出来る。週末に代々木公園や井の頭公園あたりにいけば、ギター片手に歌ってるお姉ちゃんがいたり(*38)、似顔絵描いてる旅人みたいな風貌の人がいたり、観客に囲まれて拍手喝采な大道芸人がいたりする。以前程ではないが、秋葉原の駅前も路上ライブやパフォーマンスを時折見ることが出来るだろう。彼らが異端として追い出されたりしないのは、周辺地域が彼らの活動を許容しており、またパフォーマンスそのものがトラブルになっていないからである。(*39)この2点をクリアにすることが出来れば公園や公共施設でのコスプレも自由に行えるはずだ。(*40)

 敢えてこのような書き方をしたのは、最近コスプレのロケーション撮影が増えているからである。撮影会や撮影コミュニティの間ではスタジオでの撮影以外に、街中を歩きながらのスナップや公園や浜辺などでの撮影などがある。もちろん公共の場を大人数で長時間占拠するようなことなどがあってはならないが、管理者や地権者に対して事前に説明をして許可を貰い、一般市民の方に迷惑がかからない範囲であれば自由に撮影をすることが出来る。(*41)同じような要領で「今回はこのような趣旨のコスプレでの撮影です」と説明すればややアグレッシブな企画でも難なく通ってしまう。もちろん周囲には一般市民もいるので注目を集めることにはなるが、迷惑にならない形であれば今の時代受け入れられてしまうようだ。
□コスプレ活動のオープン化が社会から必要とされている事情
 ただ同じコスプレイヤーやカメラ小僧の中でも異論はあるかもしれない。コスプレイヤーの中にはそこまで奇異の目に晒されてまで活動したくないという人もいるだろう。(*42)テレビや雑誌などにコスプレ活動がイロモノ文化として取り上げられてしまうことを快く思わない人もいる。また公共の場に大量のコスプレイヤーやってくることで、マナーの悪いコスプレイヤーが地域から顰蹙を買うような迷惑行為をしてコスプレに対するイメージが悪くなると心配する考えもある。総称すると「コスプレへのイメージ悪化に繋がり、規制などの風当たりが強くなるような目立つ行為は止めて欲しい」というものだ。これはコスプレ文化が過去にそのような経緯があった歴史から来ている考えであり、そう考えるのは自然なことである。その意味では正しい。しかし視点を変えて考えてみれば、必ずしもそれは正しいとは言えない要素があるのだ。
 公共の場や一般市民から見てもコスプレが奇抜で物珍しいという見方は共通しているが、必ずしも拒絶反応を示している訳ではない。むしろ逆に地域や公共施設の方から閑古鳥解消や治安回復のために「積極的にやって欲しい」とコスプレ企画を歓迎する声があるのである。どういうことか。全国各地の公園や浜辺、観光施設などは県や市が大規模に整備したにも関わらず市民や観光客がやって来ず、自治体が頭を抱えるというケースが少なくない。また人のやって来ない公園や浜辺は犯罪の温床になりやすく、一度治安が悪化すると一般市民の入りにくい場所となってしまう。(*43)そのようなところでは賑わい作りに知恵を絞っている状態であり、コスプレでの利用は渡りに船なのである。(*44)

 ただ事情は両義的である。どちらにもメリットとデメリットがあり、あらゆるケースで状況が変わる。コスプレ文化がここまで大きくなった現在では、よりオープンな活動を通して世間にコスプレが趣味形態の一つであり、決していかがわしいものではないということを広く知ってもらう。このことはコスプレ文化が社会と共存していくためにとても重要なことである。一方でそれが過激なパフォーマンスやマナーの悪い行動で悪印象を植え付けることになってしまわないよう。TPOを弁えることも重要だ。またこのような公共の場でのパフォーマンスは有志が行えばいい話であり、隠れてコスプレ活動をしているコスプレイヤーも今まで通り匿名的に活動を行えるよう棲み分けが必要だろう。どちらが正論かというものではないのである。

(*35 1979年から1984年頃にかけて代々木公園横に設けられた歩行者天国でラジカセを囲んでディスコサウンドにあわせて踊っていた人たち。その時代に限らず原宿にはいつも派手なファッションの若者たちがいる。ちなみに筆者は何故かコスプレと同じように派手な彼らを撮っていた時期がある。)
(*36 TFTホールで東京コスプレキャラクターショウを主催しているJCC(JAPAN COSTUMEPLAYER CONVENTION)や、晴海コスプレターミナルを主催しているJCF(japan cosplay festival)と高天原、コスプレ博を主催している勇者屋などの大手主催団体に限らず、コスプレイベントを主催する団体は企業・非企業関係なくたくさんある。なかには数人の有志コスプレイヤーによる手弁当イベントも。自分たちの手でコミュニティの場を作る活動は撮影会文化と似ているものがある。)
(*37 ハートキャッチプリキュア。ちなみに東映アニメーション企画営業本部プロデューサーの鷲尾氏が語るには、プリキュアでは水着やパンチラの描写を排したお陰で俗に美少女オタクといわれる人種に溺愛されることはなかったそうだ。そう思うんならそうなんだろう。)
(*38 公園の歌姫といえばあさみちゆきさんが有名。メジャーデビューしてからも井の頭公園でのストリートライブを続けている。)
(*39 トラブルになっていても何らかの妥協がなされていたり、活動ができるためのルールが出来ていたりする。)
(*40 無論どこでも許可してもらえる訳ではない。鳩山会館などは過去にコスプレやゴスロリファッションの女性が大挙して押し寄せトラブルになった経緯があり、入館の服装や撮影が規制されている。)
(*41 公園や浜辺なら自治体の管理事務所に許可を申請する。撮影会などは過去にトラブルがなければ10人程度のものは問題なく許可が下りる。街中を歩きながらのスナップ撮影は警察に注意を受けない程度の規模で行われている。)
(*42 コスプレ活動を隠れてやっているコスプレイヤーはたくさんいる。誰かに見せたい。だけど普段の生活で知りあう人たちには見られたくないという匿名的な活動を望む人は多い。)
(*43 実際に人の来ない公園は不良の溜まり場や薬物取引の場にされてしまう。そこにハトプリやキリンが大挙して押し寄せればヤンキーはビビって来なくなるという寸法である。狩りには狩りで対抗するワケだ。)
(*44 利用者が少なければ税金の無駄遣いと揶揄される事情もあろう。赤字を批判する前にそのリソースを市民がどんどん使えばいいのである。そのようなアイディアは過疎の進む地方自治体には歓迎される傾向にある。)

■Chapter.6 違和感「女の子だけのクローズド活動とマナーの流動性」

□若い世代の新たな活動形態が上の世代からマナー違反に見える
 前章でも触れたが、コスプレの歴史は常にマナー悪化とそれに伴う規制の歴史である。コミケに限ってもコスプレした状態での来場や帰宅(*45)、ボールや武器の持込み(*46)、警察官などの制服(*47)、立ち入り禁止区域でのパフォーマンス(*48)など物議を醸す迷惑行為が出てきては周囲から批判が集まり、その度に新たな制限やルールが加わることの繰り返しだった。今でこそコスプレに対する風当たりは弱くなったものの、マナー違反だと批判が起こることは決して昔話ではなく、現在もその応酬が繰り返されている。
 ところがここ最近のマナー云々の中身を確認してみると、ある傾向を見てとることが出来る。今までは迷惑行為について外部からの苦言や批判であったものが、現在はコスプレに関わる上の世代の人たちが新たにコスプレ活動を始めた若い女の子たちに向けて、活動形態について苦言や批判をするシーンをよく見かけるのだ。
 よくあるマナー違反の指摘としてはイベントに三脚を持ち込んで自分で自分を撮影するセルフ撮り、混雑するイベント内で布を敷いたり花びらなどの小道具をちりばめたりする広いスペースを確保する行為、一度確保した広いスペースでその日一日過ごしたりする行為など、近隣や周囲への迷惑行為というよりは、コスプレイベントで活動する上での利害対立の内容が目立つ。自分たちが譲りあってきたものを、若いコスプレイヤーが自分たちの権利として独り占めすることに腹を立てているのだ。
 一方で若い世代の女子コスプレイヤーたちはイベントのルール内で活動しているにもかかわらず何故怒りをぶつけられているのか分からず「ハテナマーク」の状態である。「何がいけないの?」「なんで怒られてるの?」「意味わからないんだけど」という具合だ。世代間でマナーにギャップが存在しているのだ。
□若い世代のコスプレイヤーが作り出す新しい活動形態
 現在あちこちのコスプレイベントに足を運ぶとイベントごとの傾向の差こそあれ、若い女の子だけで集まっているグループが多くを占めている。(*49)新たにコスプレを始める女の子はまずコスプレイヤーズアーカイブやCureなどのコスプレSNSで知り合い、連絡を取り合ってキャラ合わせや友達作りの交流を果たしている。(*50)コスプレに興味を持った若い女の子は、雑誌とネット等と同世代の友達をきっかけにコスプレに参加するようになっているのである。(*51)
 情報はリアルでの伝達よりもネットから収集する時代である。コスプレイヤーズアーカイブではPCよりも携帯電話からの新規登録が増えているという話であり、特に若い世代はケータイでのやり取りが中心となっている。ネット上ではすべてのアカウントが対等な関係だ。マナーや迷惑行為に対するトピックが立つと、若い世代と上の世代でマナーにギャップがあるためコミュニケーションが噛み合わず叩き合う方向に向かってしまう。直接交流するのは同じ若い世代の友人だけとなり、上の世代がマナーだと思っていることが上手く共有出来なくなってしまうのだ。
 その結果若い世代は若い世代の女の子だけでコミュニティが完結することになり、そのクローズドで小規模なグループが彼女らにとっての「コスプレ文化のすべて」となる。そのグループの外側にいる「コスプレを撮影しているカメラ小僧」も「上の世代の女性コスプレイヤー」も彼女らにとっては価値観が違うので距離を置くべき他所者となってしまう。言い換えればコスプレイベントが(社会から見た)女子高のような空間になっているのだ。なんのコネクションもないままカメラ小僧や上の世代のコスプレイヤー(たとえ女性レイヤーであっても)が現在のコスプレイベントに向かうと強烈な疎外感を感じるのはそのためだ。マナーの共有や伝達がそこで分断されており、酷いケースでは本来の迷惑行為である公共交通での場所の占拠や大声でのお喋り(*52)、更衣室でのマッパ着替え(*53)、ゴミのポイ捨てなどの自己中心的な行動すら制御されないまま横行しているのである。
□異なる価値観同士での意識の共有は難しい
 今までのコスプレイベントは同好の仲間と交流したり、新たな友達作りをする場であったが、コスプレSNSなどのサービスが拡充している今は必ずしもそうではない。若い世代にとってはネットでできることはネットで済ませ、コスプレイベントは「自分の世界を作り、それを表現する発表の場」という位置付けをする向きが強いようだ。わざわざコスプレイベントで布を敷き、大きなスペースを使ってコスプレの完成度をアピールする場となっている。(*54)そのため自分たちで三脚やカメラを持ってきて自分たちで納得のいく写真を撮るのが若い世代のコスプレイヤーの活動形態だ。(*55)これ自体は現時点でのコスプレイベントのルールを逸脱するものではない。(*56)
 一方でその自己完結性は同じ仲間内では意識が共有出来るものの、上の世代のコスプレイヤーやカメラ小僧からは排他的で閉鎖性の強いものに見える。また実際に混雑した中での広いスペースの確保や占有はマナー違反に見えるだろう。若い世代が内輪ではしゃいで自己中心的な迷惑行為にまで及んでいれば注意や苦言も言いたくなるものだ。
 だが実際には価値観が異なる中でマナー意識のギャップを埋めるのはとても難しい。若い世代の女子コスプレイヤーにとって、コスプレイベントは表現がメインであり交流はメインではない。表現のために仲間を作って交流することはあっても、多様な価値観の人と交流したいとは思っていない人はコミュニケーションが対立で終わってしまうだろう。それこそ「何?マナー?私たちちゃんとイベントのルールは守ってるし、何がいけないの?そっちの勝手な価値観押し付けないでよ」となる。そして、困ったことにその言い分は論理的には正しいのだ。結果としてこの断絶は決して埋まることが無いのである。(*57)

(*45 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』で黒猫がゴスロリを「これは私服よ」と言っていたが、昔はアニメ作品のキャラの私服を「これは私服だ!」と言っていた。どう見ても『ペガサス星矢』です。本当にありが(yr)
(*46 ボールやスパイクシューズは『キャプテン翼』ブーム時に大量に持ち込まれてケガ人続出で持ち込み禁止。武器は『鎧伝サムライトルーパー』や『天と地と』ブーム時にポン刀が持ち込まれて持ち込み禁止。だが歴史的経緯を知らないコスプレイヤーが『NARUTO』でクナイを持ち込んだり『イナズマイレブン』でスパイクを履いたりという例は後を絶たない。ちなみにコミケ以外のイベントでは混雑度に応じて長物OKなどある程度ルールに差がある。)
(*47 昔『機動警察パトレイバー』という作品があってだな…あとはわかるな?)
(*48 池に入ったり非常ハシゴに登ったり…。昔と比べれば大分大人しくなったように思う。)
(*49 今年筆者が歩き回って確認した限り、首都圏ではコミケとTFTで比較的カメラ小僧(男性撮影者)が多く、それ以外のコスプレイベントでは女性コスプレイヤーが殆どを占め、男性はカメラ小僧もコスプレイヤーも殆どいない状況だった。もちろん時期やイベントごとの傾向はあるので「筆者が行ったイベントはたまたまそうだった」ことを付記しておく。)
(*50 コスプレ初心者コミュニティを見た限り、女の子がコスプレを活動を始めるに当たっての最初の障害となるのが「どうSNSデビューすればいいのか?」のようだ。「フレンド申請送ったけど返事が返ってこないどうしよう」とか「知らないレイヤーさんのキャラ合わせ募集に参加してもいいのか不安」というコミュニティに参加するためのお悩み相談が多い。)
(*51 きっかけの大きな要因の一つとしてコスプレ情報誌が挙げられる。グラビアでコスプレの完成形を写真作品として掲載している。こういう格好をしてみたい、こういう写真を撮ってみたいという明確な目標イメージが出来るようだ。)
(*52 晴海埠頭ターミナルなどは最寄り駅が2kmも離れており、交通手段が徒歩かタクシーかバスしかない。ほぼすべてのコスプレイヤーは大荷物を持って大挙してバスに乗り込むことになるので、酷いときはターミナルから東京駅までの間ほかの一般市民が殆どバスに乗れないような事態が発生する。去年はバスの中で大声での歓談やアニソンを垂れ流すなどの大はしゃぎだったことが会場に対する苦情になったようだ。イベントが楽しかった気持ちはわかるけどね。)
(*53 女性から聞いた話。断じて覗いてはいない。)
(*54 イベントで初音ミクの『ワールドイズマイン』の寝そべるシーンを実践しているコスプレイヤーもいる。マナーの是非はともかく筆者の見たものはコスプレの完成度が高く、唸るものであった。)
(*55 カメラ小僧に撮影をお願いすると写真が手元に来るまで連絡のやり取りとタイムラグがある。自分のデジカメでセルフ撮りをすれば帰宅してそのままブログやSNSにアップロード出来る。それだけ面倒要らずで魅力的なのだろう。)
(*56 三脚持込みはあくまでコミケ以外のコスプレイベントの話。最近はコスプレイヤーの女の子もカメラ小僧顔負けの撮影機材を持っている。)
(*57 しかしこの閉鎖性は新しい人が入ってこなくなるため文化全体の先細りを招く要因にもなる。新しい風を入れるためにも外部に向けての発信とコミュニケーションは必要だ。が、マクロ的な論理で説得しても「はぁ?」で終わるだろう。)

■Chapter.7 違和感「いくら言っても話の通じないカメラ小僧の存在」

□どうして話が通じないのか
 読者の中には話の通じない人に出会ったことはないだろうか。同じ日本語を話す者同士として会話は成立するのだが、後から相手はなんにも話を理解していなかった、あるいは相手の中で自分に都合の良いように解釈されていた、というケースだ。
 本題に入る前に具体例を使って説明をしてみよう。ある会社に上司Aさんと部下Bさんがいたとする。Bさんは仕事が出来ない。いつもミスを連発し、その度にAさんに叱られている。ところがBさんは自分のことを「仕事の出来る人間」だと思っているのである。仕事で連発するミスはBさんにとってミスではなく偶発的トラブルということになっており、全部Aさんの指示の仕方が悪いということになっている。ミスを叱るAさんのことは仕事が回らないことを周囲に当たり散らす低能な上司に見える訳だ。Bさんの視点では自分がミスをしたことにはなっていないので、自分の仕事ぶりが間違っていたなんてことはちっとも考えない。だから反省や改善をすることもなく、かくして同じミスを連発する──という具合である。(*58)
 Aさんや会社にとってはたまったものではない。いくら指導してもBさんは仕事が出来るようになってくれないのである。それどころかBさんは「自分は悪くない、周りが悪い」と本気で信じているので、何を話しても全部自分に都合の良いように解釈されてしまう。(*59)この状況が続くとAさんはBさんが何を考えているかわかるようになる。そして「こう言ったらきっとああ返ってくるだろうなぁ」の想定問答がシミュレート出来てしまう。最終的にBさんは救いようがないという結論になり、ミスが周囲に影響の少ない窓際族に配置されてしまうのだ。(*60)
□「迷惑なカメコ」は周囲からどのように見えるか
 カメラ小僧にもこのBさんのような自分に都合の良い解釈をする人がいる。一見まともそうに見えても、自分が正しいと思ったことを絶対的に信じていて、しかもそれが明後日の方向を向いているようなケースは少なくない。酷いケースでは周囲にはそれがありありと見えて裸の王様と化していることもある。(*61)
 例えばコスプレ広場に来ているカメラ小僧はほぼ全員「自分はルールをきちんと遵守している」と思っているが、実際はその多くが迷惑行為を行っている。でなければ準備会にコスプレイヤーからの苦情が殺到したりはしない。そして「自分が迷惑を掛けている」とは微塵も思っていないのである。
 よくあるのが強引な撮影である。カタログや撮影リーフレットの注意書きには「撮影は相手の承諾を得てから」ということが明記されている。ところがこれを読んだカメラ小僧にとっては「声を掛ければいつでも誰でも撮影できる」となってしまうのだ。(*62)コスプレ広場に来ているコスプレイヤーは全員がいつでも誰に対しても撮影OKというわけではない。知り合いに撮ってもらう為に広場に来ているコスプレイヤー(*63)や、コスプレイヤー同士で撮りたい人も存在する。友達と会うために待ち合わせで来ている人もいるだろうし、なかには広場を出ようと移動中の人もいる。
 そこにいきなり「お願いしまーす」と言ってカメラを向けてくる見知らぬ人がいるのだ。なんだその「お願いしまーす」は。さも「声掛けたんだからOKだよね」と言わんばかりのニュアンス。そしてこちらの可否の返事を待つというよりは、既に撮影体制でこちらがポーズと表情を作るのを待っているかのような態度。すっかり撮影に同意してくれるという前提でいるのだ。
 筆者もコスプレをしたことがある(*64)ので被写体としての立場がわかるのだが、このような状況で拒否のメッセージを伝えるのはかなりのエネルギーを要する。(*65)確実に相手は不快になるからだ。どんな反応を返されるかを考えると恐怖感やストレスにもなる。結局拒否しきれずに撮影に引っ張られてしまうこともあるだろう。結局のところ無断撮影が無理矢理撮影になっただけで迷惑は何も変わっていないのである。
 だが一方でカメラ小僧の頭の中では「きちんと事前承諾を得ている」「迷惑にならないよう配慮している」「ルールは守っている」ことになっているのである。恐らくコスプレイヤーの側から見てもその都合の良い脳内変換が見えているはずだ。きっと何を言っても通じないのだろうという諦めに到っているかも知れない。救いようがないと見られているのである。
□嫌われたあと、さらに嫌われる行動をとるカメラ小僧の思考パターン
 話の通じないカメラ小僧というのはコスプレ広場にいる初対面の撮影者だけに限らない。一見まともに見えて、長く交流を続けていると見えてくる思考パターンの人もいる。
 撮影した写真データやプリントをくれるカメラ小僧もいるだろう。コスプレイヤーとしては撮影したものがどう写っているのか知りたい気持ちはあっても、頼んでないのに毎回撮影にやってきては毎回大量に写真データを渡されては正直困惑することもある。(*66)困ったことに撮影が下手な人ほど律義に写真をくれるのだ。内心「いらねー…」と思いつつ、でもここで要らないと言うと余計に面倒臭くなるので笑顔でお礼を言ってお茶を濁すというケースがある。
 カメラ小僧の方はというと「相手が喜ぶ良いことをした」「だから感謝されるはず」という解釈となっている。このようなすれ違いが積み重なると「自分は正しいことをしてきたのに、正当な評価を受けていない」「俺は正しい、だから相手が悪い」というとんでもない方向に向かうのだ。こうなると周りから相手にされなくなる。
 さすがに周囲の誰からも相手にされなくなると本人も避けられていることに気が付くのだが、ここまで「自分は正しい」「自分は悪くない」という自己愛の信念が強いと原因が自分にあるということに気付かない。たとえ間違いを指摘されても自分が間違っているという事実が受け入れられず、「いや、それは違う。そんなことはない」で一蹴し、避けられている原因を他人や自分以外のものになすりつけてしまうのである。
 次に来るのが周囲への恨みの感情である。カメラ小僧の場合それは粘着や誹謗中傷となって現れる。(*67)対象が女の子コスプレイヤーであればストーカー行為となり、同じカメラ小僧であれば根拠のない噂の流布となる。タチが悪いのはそれでも「自分は正しいことをしている」と信じて疑わないのである。
□悪気はないからこそ迷惑な思考回路
 カメラ小僧も最初から迷惑行為を働こうと考えたり、積極的にルールを破ろうとしているわけではない。また論理的に物事を考える力がないわけでもない。彼らの中では正しい行動、善い行動、相手に喜ばれる行動をしたいと考えている。だがその考えている「正しい行動、善い行動、相手に喜ばれる行動」が明後日の方向を向いていることが問題なのだ。しかもそれを信じていて微塵も疑わない。それが周囲にも分かるからこそ迷惑に繋がっているのである。

(*58 これが会社のような運命共同体でなければニコニコしながら礼儀正しく距離を置くことが出来るのだが…。)
(*59 自己愛の信念が強くなり過ぎると、責任の所在を外部に求める「他責感」が強くなる傾向があるらしい。酷くなるとアクロバティックな論法で明後日の方向に責任をなすりつける。女の子に振られたのはウチの大学がショボいせいだとか。なぜそうなる。)
(*60 Bさんが働くことで生まれる利益が月50万円、一方Bさんのポジションの雇用を作り出す会社のコストが月100万円なんてことも。涙ちょちょぎれるぜ。)
(*61 あえて言おう、過去の筆者であると。)
(*62 カメラ小僧と書いたが、実際は本格的なカメラマンだけでなく携帯のカメラやコンパクトデジカメで撮るカジュアルな一般参加の撮影者も含まれる。)
(*63 筆者がその「撮って欲しい知り合い」だったりする。いや、素敵なコスプレイヤーさんに撮影を頼まれるのは光栄ですよ。自分だけ撮影OKな状況は結構周囲の視線がアレですけど(汗。)
(*64 某魔法少女のコスプレしました。一応女性に間違われました。)
(*65 マジな話、嫌われるのを覚悟で撮影を断るのはかなり勇気がいる。ヒヨって自分が嫌な思いを我慢すれば穏便に済むかな、とか考えてしまう。断るにしてもゴメンナサイを連呼して取り繕うことになる。カメコ怖いので(ぉ。)
(*66 考えてみよう。撮影に応じたとはいえ大量の写真データをDVD-Rで渡されるのだ。もちろんブログに載せるなどで欲しい場合はあるが、自分が写った2000万画素の巨大JPEGファイル500枚×5人から受け取るとなれば1回の撮影で2500枚である。セレクトされてなければ失敗ショットも大量に入っているので見るのも大変だ。その上保管場所も圧迫する。これどうしろと。)
(*67 もちろん本人にとってその意識はない。謝罪に来るならまだしも「俺は悪くない」を言い訳(本人にとっては説明)しに来るのである。)

■Chapter.8 違和感の背景にある要素は何か

□違和感の根源はお互いの考えの「すれ違い」
 前章までの具体例で見てきた通り、これらはこじれたトラブルというよりも意見の対立である。同好の士でありながらコスプレに対する考え方が根本的にすれ違っているのだ。居心地の悪さを解消するためにどうすれば良いかを論じる前に、ここではそのすれ違いのメカニズムに迫ってみよう。
□どっちが「正しい」?
 例えば一番最初の撮りまくるカメラ小僧の「撮ってナンボ」という考え方と、撮らないカメラ小僧の「まずはコミュニケーションを」という考え方はどちらが正しいだろうか? あるいは二番目の例、「原作を知らずにコスプレするのはNG」と「可愛い格好をする自由は誰にでもあるはず」ではどちらが正しいだろうか? コスプレのエロ表現は禁止されるべきだろうか? 前衛的な表現として認められるべきだろうか? このような質問をすれば恐らく誰でもどちらかの立場を支持するだろう。だが実際には反対の立場を支持する人もいれば、どちらも支持しない人もいる。
 ここで「絶対にこちらの考え方の方が正しいのに、反対する奴らは頭がおかしいに違いない」と断定してしまいたい気持ちになるかもしれないが、ちょっと待って欲しい。前章でも解説した通り、逆の立場に立つ人たちはそもそも最初の設問意識が違うのである。例えば以下のようなことだ。

・撮りまくるカメラ小僧…「コスプレ写真を効率良く撮るためにはどうしたら良いか」
 →ただひたすらシャッターを押すのが正しい
・撮らないカメラ小僧…「コスプレイヤーに機嫌良くなってもらうにはどうしたら良いか」
 →撮影よりもコスプレイヤーへの気配りをするのが正しい

・原作ファンのコスプレ…「作品の好きな気持ちを表現するにはどうしたら良いか」
 →この気持ちをコスプレで表現する
・原作知らない状態のコスプレ…「可愛くなるためにはどうしたら良いか」
 →非日常的な変身としてコスプレする

・アダルト表現OK…「人に認められる為に自分に何が出来るか」
 →アダルト表現のコスプレ活動をすることで自分を認めてくれる人がいる
・アダルト表現NG…「コスプレやコミケに対する批判やイメージ悪化を避けるためにはどうしたら良いか」
 →過激な表現は規制されてしかるべき

・コスプレ活動は社会にオープンであってもいい…「自由に活動するためには」
 →周囲の理解を得てルールを守れば挑戦的なこともできる
・コスプレ活動は色物として見られるので慎みを持つべき…「世間から悪いイメージを持たれないためには」
 →大人としてオンとオフをきちんと切り替える分別と常識を持つべき

 反対側の立場の考え方をなかなか受け入れることは出来ないかもしれないが、相手の設定した問題意識を判断基準とすれば、相手の行動が(その設問の答えとしては)正しい判断となる。要するに最初の議論の出発点、問題設定が違うのだ。だからその論理的帰結の答えも違う。すれ違いは「どちらかが間違っているから」ではなく「そもそも考え方の前提が異なる」ことが根幹にあるのだ。
□「どちらが正しいか」という尺度では図れない
 このような前提が異なる状態では話し合いは成立しない。どちらが正しいかは「どのような問題設定をするか」で正解が変わってしまうからだ。すれ違いは意見の異なる双方が同じテーマで話し合ってるように見えてその前提条件である「どのような問題設定をしているか」が共有出来ていないために発生する。
 ややこしいのはそれぞれの考え方が論理的には何も間違っておらず、言い分を聞いてみるとなんとなく正しいような気がしてくることだ。コスプレ文化のなかには様々な人がいるが、基本的にはコスプレイヤーが10代後半から30代(*68)、あるいはカメラ小僧等も含めるとそれ以上の年代の人たちがいる。意見は違えども全員が十分に論理的に考えられる力を持っている。(*69)目の前にコスプレに関する問題があれば、

「コスプレとはこうあるべき」→「だが」→「そうなっていない」→「だから」→「これは問題である」→「そのための」→「原因と対策はこれである」

という考えが思い浮かぶだろう。この思考の流れのうち

『→「だが」→』『→「だから」→』『→「そのための」→』

という論理の繋げ方は間違っていない。よって結論の「原因と対策はこれである」までの流れは論理的に間違ってはおらず、一見聞いていると説得力があるように聞こえるのだ。
 しかし話の出発点である「コスプレとはこうあるべき」「これがコスプレのマナーである」という前提は立場や世代によって大きく異なっていることを見落としてはならない。その事実に多くの人が気付いておらず、相手も同じ考えを持っているという前提で話をしようとしてしまう。その結果考え方がすれ違い議論が噛み合わないという状態が起こり、相手を「話の通じない頭のおかしい人」と断じて切り捨ててしまうのだ。
□「こうあるべき」は「この方が自分にとって都合が良い」と同義
 さらに面倒なことに、「コスプレとはこうあるべき」「これがコスプレのマナーである」は時代や状況、立場や相手によって常に変化する。正解は一つではない。またその正解は「誰にとっての正解か」ということを常に考えなければ再び状況判断を誤ることに繋がるのである。
 コスプレイヤーはもちろん、カメラ小僧も、あるいはコミケスタッフ、コスプレイベントを運営する主催団体、誰もがそれぞれ自分なりの「コスプレとはこうあるべき」を持っている。(*70)だがその「こうあるべき」は少なからず「この方が自分や自分の立場(世代)に都合が良い」が含まれる。「こうあるべき」という考えの表明は自分への利益誘導にほかならないのだ。それ自体は悪いことではないが、無自覚に「自分の考え方が正しい。コスプレとはこうあるべきである。これが正しいマナーだ。だから相手は間違っている。」と考えるのは状況判断を誤ることに繋がりやすく、非常に危険な傾向だといえる。
 必ずしも当事者の立ち位置がマジョリティ(同意見の大多数)ではなく、マジョリティの考える「こうあるべき」がそれ以外の少数派の立場の利害も含め全体的にバランスの取れた判断とは限らないのだ。(*71)
□世代と連動した「こうあるべき」
 「コスプレとはこうあるべき」という考えは個人個人で完全に異なる訳ではなく、「コスプレイヤー」や「カメラ小僧」あるいは「イベントスタッフ」というそれぞれの立場である程度共通の考えを持つ。また立場や性別によるものと違って世代によって形成された「こうあるべき」が存在する。90年代、2000年代前半、2000年代後半といったそれぞれの世代で共有される意識やマナーもあるだろう。
 立場による考え方は時間が経過しても状況が同一であり「こうあるべき」の変化が比較的少ないことに対して、世代ごとに共有する「こうあるべき」はその世代の中では広く通用するものの、時間の経過によってそれが「古い考え方」に変化していくことがある。
 特にコスプレ文化を構成する中の人たち──主に若い女性コスプレイヤー──は進学、就職、結婚など数年単位で目まぐるしく状況が変化し人もどんどん入れ替わる。(*72)たった3〜4年で自分の「こうあるべき」が周囲に通用しなくなることもある。居心地が悪くなりコスプレ活動から離れる人もいるだろうし、コスプレを続けながらも急激な価値観変化に取り残されて不安になる人もいるだろう。
 特定の世代にとっての「こうあるべき」は、その世代にとっての「自分たちに都合が良い考え方」である。年単位での時間経過によって新しい世代がコスプレ文化にどんどん参加してくるようになると、前の世代の「こうあるべき」が時代にそぐわないものとなっていく。つまり前の世代にとって「都合が悪い」考え方がコスプレ文化の中で大衆を占めるようになるのだ。
 このとき新しい世代と前の世代との間に、正解のない価値観対立が起こる。「原作を知らないまま衣装を着飾るコスプレイヤーの登場」はその最たる例だろう。新旧マナー対立、価値観対立は実際にはマナー注意やルール違反の告発という形で噴出してくる。その告発を見たギャラリー(周囲の人間)にとっては一見「こっちが善、あっちが悪」というものに見えてしまうだろう。ギャラリーは必ずしも中立の立場ではなく、大抵は特定の世代の集合である場合が多い。そのため「そうだよね〜。アイツら有り得ないよね〜。」というように共感出来る仲間内だけで意見を集約し、どちらかを断罪してしまうのだ。(*73)
□「正義は我にあり」は相手から「駄目だこいつ…早くなんとかしないと…」に見える
 だがそこで通用しなくなった「こうあるべき」を周囲に無理強いすることは得策ではない。全体の利害バランスから見て古い考え方となっている場合、周囲から「ソリの合わない人」と見られてしまうことになる。あるいは本人がその状況変化にまったく気が付かず「話の通じない人」としてイタい人に認定されることもあるだろう。
 それぞれの「こうあるべき」が社会的にどのくらい整合性があり、どのくらいマジョリティが共感するかは時代や状況、立場、問題設定によって変化する。「自分たちが正しい」「相手はおかしい」という断定は危険であり、迷惑にもなり得る。実際はここまで自己中心的な考えを意識的に振りかざす人はいないだろう。しかしある世代が「これはマナー違反だ」「これはルール違反だ」「この状況はみんなが迷惑する」「これは法律に反する」と何かしらの根拠を掲げて自分たちの判断の正当性を信じ切ってしまうパターンは多い。コスプレ文化の為という正義を立てつつ、自己中心的な都合の良い利益誘導を無自覚に行ってしまっているのだ。
 一歩引いて見てみると他の世代からは「話の通じない人(世代)」と見られており本人たちはそれにまったく気が付いていないという状況がこの世界では多発している。このことがお互いの居心地の悪さに拍車をかけているのである。

(*68 ●年以上活動しているコスプレイヤーは年齢が変動する魔法が使えるそうだ。中学23年生とかも。2〜3年生ではない。)
(*69 そう信じたい。)
(*70 コスプレ広場担当のスタッフの方々は良い意味で「コスプレはどうあるべきか」「コスプレ活動しやすい場はどうあるべきか」を本気で考えている。一方でカメラ小僧を敵視する訳ではないが撮影者の増加によってコスプレイヤーの活動に障害が出ていることを歯痒く思っているそうだ。ごめんなさい(汗。)
(*71 良い悪いの判断には常に「自分に都合の良い状態を作ること」が入る。相対的に多くの立場が受け入れ可能な利害の落とし所を探すことになるだろう。解(正解ではない)は常に変動するはずである。)
(*72 一方でカメラ小僧は多くが既に社会人であり、生活環境が劇的に変化することは少ない。)
(*73 もちろん対抗陣営も徒党を組んで「そうだよね〜。アイツら有り得ないよね〜。」とやっている。)

■Chapter.9 どうしてコスプレ文化に「すれ違い」が多いか

□「みんなで共有される活動の流れ」が存在しないコスプレ文化
 最後にオタクの表現活動として親戚関係である同人誌文化と比較して、何故コスプレ文化に「違和感」と「すれ違い」が多いかを分析してみよう。コスプレ活動と同人活動はコミケの発祥の頃から切っても切れない関係として共に育ってきた文化だが、一つだけ大きく異なる点がある。それは定まったワークフローの有無だ。
 同人誌という文化はコミケが登場する以前から「描いて」→「売って」→「買って」→「読んで」という一連の流れがあり、この流れについては誰もが疑うことなく意識を共有していた。作り手は多くの人に同人誌を読んでもらうことを望み、受け手はどんなときも本を手に入れることを望んだのだ。コミケ自体その流通経路を新たに生みだす試みであり、この流れを否定することに意識が向かうことはなかった。もちろんプロ、アマ、営利、非営利などの是非の議論や対立は存在していたが、「描いて」→「売って」→「買って」→「読んで」という一連の表現活動の流れそのものを全否定するのものではなかったのだ。この部分は昔から現在にかけて不変であったのである。
 一方でコスプレの表現活動の流れは多種多様である。コスプレ活動においては人によって目的や目標が別々であり、定まった一連の流れは存在しない。「コスプレって何をするのが目的で、何ができれば活動として成立するの?」という質問をしたとすれば、様々な回答が返ってくるだろう。
 衣装は買って用意してもいいし、自分で一から作っても構わない。コスプレ衣装をあれこれ試行錯誤しながら作るのも楽しみの一つであり、逆にその工程を衣装購入でパスして着ることから始めても構わない。
 コスプレした姿を撮影しても撮影されてもいいし、逆に必ずしも撮影をせずともコスプレ活動は成立する。撮る楽しみ、撮られる楽しみ、あるいは撮影を通した交流もあれば、こっそり隠れてコスプレ活動する人もいるかもしれない。
 コスプレした姿を「活動の完成形」と位置付けてもいいし、撮影した写真を作品として「活動の完成形」としてもいい。最終的な活動のアウトプットは自分で定義することが出来る。
 同人サークル活動としてコスプレ写真集を売るのも自由であり、コスプレイヤーの内輪だけの集まりで活動を完結させるのも自由である。
 コスプレ活動には、そこに決まった一つの思想はない。自由に各々が「これが私のコスプレ活動である」と決めることが出来る文化なのである。
□特定の思想が入らない文化だからこそ、ここまでの多様性と成長があった
 今までのコスプレ文化のルールやマナーは社会情勢や会場の物理的限界、技術的な制約、市場の需要と供給の原則、トラブルとその対策などの事情によってのみ形成されたものであり、「こうあるべき」という思想が入らない形で運用されてきた。コミックマーケット準備会は状況の許す限りすべての活動形態を受け入れる方針で進めてきたのである。裏を返せば全員が共有する「こうあるべき」が存在しないのがコスプレ文化なのである。(*74)
 コミケの中に限ってもコスプレ文化は30年以上続いており、様々な状況を経て何度も世代交代をしてきたことは確かだ。何度も前の世代と後の世代ですれ違いが発生し論争、対立があったはずである。その上でどちらかの思想や活動形態が消滅したりすることはなく、古い考え方や活動形態も、新しい考え方や活動形態も「表現としてアリ」とされた上ですべてが温存されてきたのである。そしてここ数年間の間にも若い世代によって、今までの世代を揺さぶるコスプレのあり方が形作られてきているというのが現状である。
 新しい考え方や活動形態が既存の考え方や利害と対立し、面白くない感情を抱くケースもあるだろう。しかし今の若い人たちも、ゆくゆくは次の世代の「こうあるべき」に神経を逆撫でされる立場に立つことになる。正しいも正しくないも存在しない。むしろ特定の思想を持たずにそれらを「多様性」として丸飲みしてきたからこそ、コスプレ文化はここまで成長してきたといえるのである。

(*74 多様性の維持という理念を共有しているとは言えるが…。)

■おわりに

□本来は「カメラ小僧の歴史」を書く予定でした
 今回のテーマはいつもと毛色の違う内容でしたがお楽しみ頂けましたでしょうか。毎度のことながら強いメッセージを発する本の頒布後は読者からの反応にビクビクしています(汗。もし不快にさせてしまった方がいましたら謝りますorz

 さて、ここではこの本を書くに到った経緯を少しお話しします。去年の冬コミで第2巻を書いてから次に何を書こうか、と考えたときに思い付いたのがカメラ小僧の「歴史」の話でした。冬コミから夏コミまでは8ヶ月と比較的時間があるので、当初は資料を集めてコスプレ文化とカメラ小僧文化の歴史の変遷をまとめ、それぞれの歴史の中での事象が双方でどう影響しあったかを分析する本を書くつもりだったのです。
 コスプレ文化とコミックマーケットは切っても切れない関係であることから、コスプレの資料と共にコミックマーケットや同人文化の資料も集め、当事者の声としてコスプレ評論家で昔からのコスプレ事情にも詳しい牛島えっさい氏に70〜90年代のことを伺ったり、コスプレイヤーズアーカイブ(コスプレSNSサイト)を主宰する吉田創氏に最近の動向を伺うなどしてコスプレの歴史や文化的な背景を洗おうと試みました。
 一方でカメラ小僧の方はというと、実のところ直接的な歴史を記す資料が皆無でした。まずはニコンやキヤノンなどのカメラメーカーや、富士フイルムやコニカなどのフィルムメーカーの社歴から当たり、当時のカメラやフィルムがどのようなモノだったか、どのくらい撮影が不便で、どのくらい高価だったかを踏まえた上で、数少ないプロカメラマンの自叙伝などをもとに当時の「カメラ少年」がどのような活動形態だったかを調査しました。大体その輪郭が見え始めたのが春頃だったと思います。
 ところが夏コミを目の前にして、新たな事実が見えてきました。調べれば調べるほどコスプレの歴史とカメラ小僧の歴史に相関関係がないのです。カメラ小僧人口そのものはカメラのAF化やフィルムの安価化の時期に爆発的に増えているはずなのですが、コスプレ広場ではその傾向がありません。ここでようやく気付いたのは「カメラ少年≠コスプレ広場にいるカメラ小僧」という事実でした。要するに70〜90年代にカメラを持っていた青少年たちと、コスプレ広場に来ていたカメラ小僧は全然別の人種だったのです。結局、歴史的な相関関係の本は書きようがありませんでした(汗。これが夏コミで準備号になった理由ですorz
□本当は幻のChapter.10〜12が存在します(汗
 気を取り直して冬コミでは、歴史を調べていくうちに見えてきた対立の構図についてまとめることにしました。現状のマナー対立を分析し、文化の構造を理解した上で過去の歴史的経緯に触れる文章構成にしました。
 ところがカメラ小僧・コスプレ双方の歴史解説のChapterを加えると今度は文章量が1.5倍程超過してしまうという有様(汗。本当は昔のフィルムやカメラの話をしたかったのですが、56ページとなってはさすがにホッチキスの10号針が通らないので、泣く泣く今回の構成となりました。
 短く簡潔にまとめようと意識してはいるのですが、文章にすると情報量がかなり省略されてしまうんですよね。できるだけ伝えたい文脈を残そうとするとやはり長くなってしまう。長過ぎる文章は下手の象徴です。今回ばかりは自分の才能の無さを痛感しました。
 来年は新たに書きたいテーマもあるので今回お蔵入りした歴史の話を次回作として出すかどうかはわかりませんが、いつか機会を見てまとめ直したいと思います。一応カメラ小僧なのでクラシックカメラの話したいんですよね(汗。資料としてminolta SRT101とかわざわざ入手したので。
□今後のこと、謝辞
 気が付いたら今回の冬コミでサークル活動2周年です。が、まだまだ書きたいネタは尽きません。今まではコミュニケーション論や社会学的な評論ばかりでしたが、来年からはまた別口から切り込んだ本を出していきたいと思います。もっと妖しい方向になるかも(何。今後ともよろしくお願い致します。

 最後に謝辞を述べさせて頂きます。
 表紙は高崎かりん様に描いて頂きました。はぁ〜魔理沙可愛いよ魔理沙(ぉ。素敵なイラストをありがとうございました。来年もよろしくお願い致します。
 棒人間はどっこいしょ様に描いて頂きました。無茶振りな指示にも軽妙な棒人間でムリヤリ応えてくれるスゴイ人です。お陰で分かりやすい図解になりました。ありがとうございました。
 大晦日の売り子補助は庶務部長様(予定)にお願いしました。わざわざ2ヶ月前から休みを確保していてくれて本当にありがとう。安心して執筆に集中出来るのは彼のお陰です。
 編集とデザインではのの様に大変お世話になりました。一人で5万字近く書いてると枝葉に捕われてつい全体像が見えなくなることがあります。編集会議での俯瞰的な視点の意見はとても助かりました。
 そして何より、会場内で本書に手を取って下さった全ての方々に謝意を表し、今回はここで筆を置かせて頂きます。本当にありがとうございました。次回は夏コミ(当選祈願)でお会いしましょう。

2010年12月某日 職場のiMacにて(←来年は自分用のMacBook Proを買うぞ!)
よろず評論サークル「みちみち」代表 みちろう

■参考文献

阿島俊, 『21世紀同人誌ハンドブック』, 久保書店, 2003年
井上隆二, 山下富美代, 『図解雑学 社会心理学』, ナツメ社, 2000年
岩田次夫, 『同人誌バカ一代―イワえもんが残したもの』, 久保書店, 2004年
牛島えっさい, 阿島俊, 『コスプレ・ハンドブック』, ジアス・ブックス, 1995年
岡田斗司夫, 『国際おたく大学—1998年 最前線からの研究報告』, 光文社, 1998年
コミックマーケット準備会, 『COMIKET PRESS 5』, コミックマーケット準備会, 1996年
コミックマーケット準備会, 『コミックマーケット30'sファイル—1975-2005』, 青林工藝舎, 2005年
坂口義弘, 『小西六は富士を倒せるか 打倒富士に執念を燃やす小西六の多方面作戦』, エール出版社, 1979年
三才ムック vol.293, 『現代視覚文化研究 vol.4』, 三才ブックス, 2010年
サンダー平山, 『サンダーTHE大口径単焦点主義者』, トレヴィル, 1997年
霜月たかなか, 『コミックマーケット創世記』, 朝日新書, 2008年
新津重幸, 『富士写真フイルム対小西六写真工業—シェア争奪戦の秘密』, 評言社, 1980年
橋村晋, 『富士フイルム日本型高収益経営の秘密』, 日経事業出版社, 2002年
別冊宝島358号, 『私をコミケにつれてって!—巨大コミック同人誌マーケットのすべて』, 宝島社, 1998年
松本賢, 『時を超えるカメラ』, 枻出版社, 2005年
宮台真司, 『自由な新世紀・不自由なあなた』, メディアファクトリー, 2000年
RUI, 『コスプレレボリューション』, 無双舎, 2010年

■スペシャルサンクス

牛島えっさい(コスプレ評論家, 元コミックマーケットコスプレ広場統括)
http://www.essai3.net/
吉田創(コスプレイヤーズアーカイブ主宰)
http://www.cosp.jp/
知り合いコスプレイヤーの皆様
知り合いカメラマンの皆様

※個人名は敬称略とさせて頂きました。

■奥付

【誌名】カメラ小僧の裏話3 コスプレ界のマナーvsマナー 正しいのはオレだ!
【発行年月日】2010年12月31日 コミックマーケット79 初版
       2011年12月31日 コミックマーケット81 第二版
       2012年12月31日 コミックマーケット83 第三版
【構成・執筆】みちろう
【イラスト】高崎かりん (表紙), どっこいしょ(本文)
【誌面デザイン】のの
【編集・印刷】のの
【発行サークル】みちみち
【発行責任者】みちろう
【ウェブサイト】http://miti2.jp
【連絡先】circle@miti2.jp

※本書内容の無断転載は固くお断りします。
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